首里城の歴史を簡単に知りたい!
~5分で振り返る子どもでも分かる首里城の歴史~
世界文化遺産の「首里城」が火事により全焼してしまいました。
歴史ある建物が失われるのは悲しい限りですよね。
琉球王国の象徴だった首里城は、これまでどのような歴史を辿ってきたのでしょうか?
1日も早い再建を願いながら、その歴史を子どもでも分かりやすいように簡単に振り返っていきたいと思います。
その中で、首里城には多くの焼失に見舞われた歴史も明らかになってきました。
首里城の歴史を5分で振り返ろう!
琉球王国以前
■首里城がいつ作られたのかは不明
首里城の築城年代は明らかになっていません。
発掘された最古の遺構は14世紀末のものと推定されていますが、13世紀末から14世紀末には既に首里城が存在していたと考えられています。
■当時、沖縄には3つの国があった
この当時の沖縄には「南山(山南)」「中山」「北山(山北)」の3つの国があり、三山時代と呼ばれていました。
この中の「中山」の城として使われていたのが首里城でした。
この三山時代は100年ほど続きましたが、1429年に尚巴志が三山を統一して琉球王国を建てました。
琉球王国時代
■第一尚氏王統時代
1429年に尚巴志が琉球王国を建てると、首里城は琉球王国の王城として使われ、政治・外交・文化の中心地となっていきました。
尚巴志が琉球王国を治めていた時代は「第一商氏王統」と呼ばれ40年ほど続きました。
しかし、農夫出身の金丸の反乱により政権を奪取され、第一尚氏王統は終わりを迎えることとなります。
■第二尚氏王統時代
政権を奪取し新王朝を興した金丸は、尚王家を継承して「尚円王」を名乗りました。
その後新王朝は、1609年に薩摩藩の侵攻を受けて支配下に置かれますが、中国に属しながらも、徳川幕府に朝貢するという立場で長く琉球王国として存続していくことになります。
新王朝は1470年ごろの政権奪取から約400年、初代の尚円王を含め19代も続きました。
しかし、長く続いた第二尚氏王統も1879年に日本政府の侵攻を受け、約400年の歴史に幕を閉じました。
この新王朝のことは、第一尚氏王統と区別して「第二尚氏王統」と呼ばれています。
沖縄県時代
琉球王国滅亡後の首里城は紆余曲折な歴史を辿ることになります。
1879~1896年 | 沖縄県駐屯の「熊本鎮台沖縄分遣隊」の兵舎として使用 |
1897~1945年 | 首里市立女子工芸学校・沖縄県立工業徒弟学校・首里第一尋常小学校などの校舎として利用 |
1923年 | 当時の首里市は財政難から正殿の維持管理を断念し取り壊しを決定 |
1925年 | 特別保護建造物に指定 |
1929年 | 国宝に指定 |
1945年 |
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1958年 | 守礼門が再建されたのを皮切りに周辺の建築から再建が始まる |
1972年 |
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1979年 |
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1992年 |
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2000年 | 世界文化遺産に指定(日本で11番目の世界遺産) |
じつは首里城は何度も消失していた!
じつは首里城は、これまで何度も消失しています。
1453年 | 王位争いの「志魯・布里の乱(しろ・ふりのらん)」の際に首里城内が破壊され、大部分が消失 |
1660年 |
第二尚氏王統の第10代尚質王の時代に失火による火災(再建に10年以上もかかったとされています) |
1709年 | 火災により、正殿・北殿・南殿が焼失 |
1945年 | 太平洋戦争時、アメリカ軍艦ミシシッピなどからの砲撃で焼失 |
2019年 | 10月31日午前2時40分頃、正殿から出火と考えられている |
反乱や戦争など、長い歴史があるためこれまで色々なことに直面してきました。
しかし、焼失するたびに再建されてきましたので、今回の焼失でも1日も早い再建を望みたいものです。
まとめ
「首里城の歴史を簡単に知りたい!~5分で振り返る首里城の歴史~」と題してお送りしてきました。
今回の火災では、残念ながら首里城は全焼してしまいました。
しかし、首里城にはこれまで何度も焼失から復活した歴史があるので、今回もきっと見事な復活を遂げてくれることでしょう。
失われてしまった首里城を見ることはできませんが、せめて「首里城はこれまでどのような歴史を辿って来たのか?」と、その歴史に想いを馳せながら再建を願いましょう。
そして、再建した暁にはみんなで首里城を訪れ、その復活を喜びましょう!